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縄文土器に耳をすませば 〜時空を越えて伝わる平和な暮らしのエッセンス

この記事は、みよた町民が実際にまちを楽しみながら、まちの魅力について考える新プロジェクト「みよたの町民note」の一環です。

本日の「みよたの町民note」は、すっかり「縄文」のとりこになっている兼松真紀がお届けします。

浅間山の南麓に広がる御代田町は、縄文遺跡がたくさん発見されている場所でもあります。そして、御代田駅から徒歩10分ほどの距離には「浅間縄文ミュージアム」があります。

引っ越し前にこのミュージアムを訪れ、この町への引越を決めたと言ってもいいくらい、こうした文化があった土地、ということは魅力的でした。

そんな私が、浅間縄文ミュージアム館長の堤さんと同学芸員の芹沢さんに縄文文化について、ネホリハホリお話を伺ってきました!

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(※「浅間縄文ミュージアム」館長の堤さん)

「縄文」という時代を語る


ーーまず、縄文時代というのは、どういう時代なのでしょうか。

館長:
「縄文時代というのは、ある意味幻想なんですよ。」

ーーえ・・・!?

館長:
「いや、あのね、その頃の人たちは、その時代を縄文時代と思って生きていたわけではないし、あくまでそれは現代の私達がそういう時代区分をしているだけなので、あまり実体視してもおかしいんですよね。」

確かに、気安く「縄文人」と言っていますが、一万年後の日本列島の民が、私たちを「コンクリート人」とか「箱型移動人」とか呼ぶようなものです。

館長:
「時代を区切るというのは難しいことで・・・
たとえば、「昭和」の約60年だけとっても、太平洋戦争中と、戦後の経済成長期とでは全然違いますし、何を持って時代を区分するかは、見方によって全然変わってくるものです。」

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館長:
「旧石器時代と縄文時代の違いとして、一般的に言われるのは、土器と弓矢の使用ですね。また、竪穴式住居を建てて定住をはじめたのも特徴です。

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日本全域では、16000年前〜3000年前くらいが縄文時代と呼ばれますが、これも最初と最後ではずいぶん違います。
弥生時代は、稲作農耕文化がおこってから、と言われますね。」

・約38000年前〜約16000年前:
旧石器時代(遊動生活、狩猟採集、土器未使用、石器使用)

・約16000年前〜約3000年前:
縄文時代(半定住〜定住生活、狩猟採集、土器使用、石器使用)

・3000年前〜:
弥生時代(定住生活、稲作農耕、金属器使用)

館長:
縄文時代と弥生時代との違いで、戦争がなかった、という言い方をすることもできます。
弥生時代になると、明らかな殺傷跡がある人骨がたくさんあるので小競り合いを越えた戦争があったと考えられます。
縄文人の人骨はものすごい数が出ているなかで、殺されたとみられるものはとても数少ないんです。平和な時代だったのだと思います。」

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北海道の縄文遺跡では、病気の人を介護していた痕跡もあるそうです。
はるか昔の「縄文」に、それでも夢とロマンを感じるのは、そういったことも関係があるのかもしれません。

縄文人が住んだ場所、現代人が住みたい場所


ーー 御代田町には一帯に縄文遺跡があると言われていますが、縄文人がこのあたりに住んだ理由とはどのようなものと考えられますか?

館長:
「まず山麓の緩やかな斜面で、湧き水があって、という条件はあると思いますが、縄文遺跡が発掘される場所には、なんというか、どこも似た感じがあるのです。」

ーー山の麓というイメージはありますね。狩猟採集生活のためでしょうか?

館長:
「それは重要な条件です。加えて、ランドスケープの良い場所にあるように思えますね。具体的に言うと、緩やかな山麓で、湧き水があり、南向きで日当たり良好ということなんですが、景観的なことも重要視していたということは想像されます。

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塩野地区にあり、信州名水・秘水にも選ばれている真楽寺内の「大沼の池の湧水」は、違う次元の世界に迷いこむかのような神秘的な雰囲気があります。

(※大沼の池)

縄文の人たちは、山も水も「資源調達の場所」という条件だけで選んだわけではなく、自然にそのような美しい地に導かれ、招かれたのかもしれません。

急速に交通網が発達した現代では、駅チカで通勤場所にアクセスしやすいとか、病院の近さ、商業施設の多さ、子どもの学区など、住む場所を選ぶ基準も様々に変化してきました。

選択肢が増えたように見えて、それは外部状況にこちらが合わせて変化しているのであって、人間の内部的欲求「ここに居ると心地良い」みたいな感覚は、ますます置き去りにされているようにも思えます。

御代田に移住してきて、喜びを感じるときというのは、
「風や雨が澄んでいて気持ちいい」とか、
「浅間山の雄大な景色を見るとのびやかな気持ちになれる」とか、
「町のみんなで愉快に集まれて楽しい」とか・・・
そんなある種の素朴な感覚なのですが、もしかすると、これも縄文の地(血)のなせることなのかもしれません。

御代田町は、実は2021年度の「住みここちランキング」で長野県内1位になっているそうです。 

オンラインでのリモートワークが普及したいま、より内側の感覚に身をゆだね、住む場所を変えて行く人たちも、これから増えていきそうです。

竪穴式住居で暮らしてみたい!


館長さんにミュージアムの中をご案内していただきました。
ミュージアムを入るとすぐに、川原田遺跡で発掘された竪穴式住居の内部復元模型があります。

円型の竪穴式住居は、現代の四角い家とは違う、全体的にまあるい空間。
「縄文」というキーワードで惹かれる人にとっては、いつまでもぼんやり、ここでの暮らしを想像してみたくなる空間です。

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ーー日本は湿潤な気候のイメージがありますが、大地を掘るようにして入っていくこの構造で、床は濡れないのでしょうか。

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館長:
「このままではジメジメしてしまいますが、中で火を焚いていたから、カラッとしていられたのでしょうね。また、床の敷物の痕跡も見つかっています。」

なるほど・・・!
大地に寄り添うようにして、まあるい空間で寝っ転がる光景を夢見ている私は、この住居を再現して造ることはできないか尋ねてみました。

館長:
あーー・・・つくるのはなかなか難しいですね。
大きな丸太を使っていますし、観光地で復元されているところもありますが、かなりの技術と費用が必要です。」

残念・・・と思いつつ、クラウドファンディングなどで呼びかけて「竪穴式住居で1day生活体験プラン」みたいなのをつくりたい思いを募らせます。

(実現に向けて、情報提供などご協力くださるかた、ぜひコメントをお願いします・・・!!)

5000年前の20歳女性と比べて、わたしたちはどのくらい縄文人なのか


さらに進みますと、縄文女性を推定してつくられた「ゆきえさん」の姿が。
明るい表情で縄文土器で煮炊きされた鍋を差し出してくれています。

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「ゆきえさん」は、いくつかの遺跡から見つかった縄文人の骨格やDNA情報をもとに復元された女性です。

・髪はちぢれ毛
・顔が平でなく立体的
・二重まぶたで目鼻立ちがはっきりしている。
・耳たぶが大きい
・瞳が茶色

といった特徴があります。
わたしたち日本人は縄文人と弥生人のハイブリッドと言われますが、遺伝的にどのくらい縄文人なのかを知る手がかりになりそうです。

縄文土器で鍋パーティー!?

縄文土器というと、空洞な器が見慣れていますが、本来、こういう風に使われていたということですね。

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美味しそうです。
でも、よく考えると、この頃は塩や砂糖といった調味料はなかったのでは・・・?

館長:
「製塩は縄文時代の後半には海辺で確認されているので、おそらく沿岸部の人と交換していたのではと思います。以前、再現して縄文ナベを作ってみたのですが、塩だけでは物足りず、味噌をいれたら普通のトン汁のようになりました。(笑)」

縄文土器でナベパーティー。いつか再現してみたいです。

日本最古級の土器片が御代田にも

こちらが、縄で文様をつけた縄文土器。

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縄の撚り方の種類だけでも100種類以上あると言われます。

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日本で最古の土器が、16000年前の青森県の大平山元Ⅰ遺跡の土器と言われていますが、わずか1000年ほど違いの15000年前のものと推定される土器片が展示してあります。(12000年前と書かれていますが、最新の年代測定では、15000年と推定されています。)

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県宝「あくびちゃん」

こちらは、県宝にもなっている「顔面装飾付釣手土器」。
あくびしているような顔から、通称「あくびちゃん」と呼ばれています。

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館長:
「これは、かなり珍しい土器です。何十年と掘って、このような土器を発見したのはこれ一つだけです。」

ーーどのように使うのでしょう?

館長:
「ランプ説もありますが、この土器に関しては煮炊きの焦げ跡があるので、鍋として使われていた可能性が高いです。」

この口の部分から湯気がモクモク出るんでしょう。
儀礼などに使われた特殊な土器だそうですが、煮炊きする鍋がこういうフォルムをしているというのは、どういう精神性なんでしょう。この鍋を囲い話す姿を想像してみると・・・戦いや支配戦略など思い浮かべる余地もなく、なんでもないような話で愉快に笑いたくなってしまうのは、私だけでしょうか・・・?

館長:
こちらのレプリカはふるさと納税返礼品となっています。」

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・・・!!

ということは、口から煙モクモクを見られるのでしょうか?
家であくびちゃんと鍋パーティーが叶うのでしょうか・・・!?

館長:
「残念ながら、防水・耐火処置はしていないので、レプリカはあくまで置物としての使用になります。」

残念・・・!
でも、あくびちゃんにキャンドルをいれて、リビングや寝室でのんびり、というのも癒やしのひとときになるかもしれません。

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(※こちらが焼かれたレプリカ。ソックリ・・・!)

あくびちゃんは、LINEスタンプにもなっているそうです!


奥にはこのミュージアムの見ものでもある焼町土器がズラリと並びます。

圧巻の焼町土器ワールド

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館長:
「こちらは、国の重要文化財になっている貴重な土器です。
やきまちとよく読み間違えられますが、やけまち土器です。長野県塩尻市焼町遺跡で最初に発見されたためこう呼ばれています。」

ーーこちらは縄の跡ではないのですね。

館長:
「竹や、木の棒などを使って文様を作ったと思われます。タコの吸盤というかドーナツのような装飾がついていること、曲線、点々の文様が特徴です。」

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ーーケルトの渦巻き模様は、死んでも生き返るというような死生観を表しているといいますが、こういう文様には縄文人の人生観が反映されていたりするのでしょうか?

館長:
「人生観までは分かりませんが・・・その集団のシンボルを文様化していると思います。例えば、いまの御代田町ではやまゆりがシンボルマークになっているように。同じ年代でも、地域によって厳密に文様が使い分けられています。
おそらく、人々の文化や伝統も違っていたのではないかと思いますね。」

芹沢:
囲うような文様があったり、流動的な流れるような文様があったり、それだけでもずいぶん価値観や地域性の違いがあるように感じますね。」

学芸員の芹沢さんは、学生時代に焼町土器に対面しドキッとなって以来、考古学の道に進まれたそうです。地域や時代によって、文様がここまで違うという地域性に関心を持ち、大学では焼町土器に関して卒業論文を書かれたとのこと。そんな芹沢さんにとってこのドーナツのような文様はどんな風に見えているのでしょうか。

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芹沢:
「僕は目ではないかと思っているんです。」

ーー 目・・・!?

芹沢:
「他の地域でも、土器のモチーフが顔や人間になっているところもありますし。山の向こうの諏訪地方では、土偶を土器につけているようなものまで出ています。」

ーー実は、先日読んだ本のなかで、縄文人はいまより自然界の目を意識していたという話がありました。おばあさんたちの世代では「お天道さまが見ている」といった言い回しもありますし、現代の私たちでも「山に見守られる」という感覚は違和感なく受けとめられる言葉ですね。

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芹沢:
「視線ですか。なるほど、それもあるかもしれませんね。山に入っていくと、何か目線というか気配を感じるというか、そういう感覚はありますからね。それが、本当に「在る」のかどうかは別として、「感じることは感じる」ということはありますね。」

幻想に包まれた縄文時代。ある種の虚構世界でもあるような現代。
そのなかでの実在とは、究極的には、最も幻に近そうで、たったいまに展開する
"そう感じる"
という肌感覚であったりするのかもしれません。

芹沢:
「実際見てきたわけじゃないから、縄文人の感覚までは分からないのが実情です。いまの我々が全く想像しえない考え方を持っていたのか、逆に、どこか我々にいろんな考え方を想像させるくらい幅のある思想をもっていたのか・・・。

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館長:
「地域のなかで一部だけ、別の文様の土器が発見されてもいるんです。それは、他地域との交流があったということです。」

ーー土器の交換をしていたんでしょうか。

館長:
「それもあったと思いますが、女性が嫁いでくるときに持ってきたとか、嫁ぎ先で実家の地域の文様の土器を作ったとも考えられます。」

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ーー精神性や価値観が違う場所の人たちと、敵対するわけではなく、仲良く交流しあっていたということですね。

館長:
「そうですね。他の地域との交流をもって、社会を維持していたということだと思います。

館長:
長野県は黒曜石が多く出土する地域なのですが、それが関東地方でもたくさん発見されたりしています。山の民は黒曜石を、沿岸部では塩や海産物を交易品としていたと考えられます。」

縄文土器が教えてくれる、表現と受容の陰陽統合


まるく囲まれた炉や土器は、器としての女性原理を表し、炉の近くに立てられた立石は、男性原理を象徴するかのようです。


ーー最後に、はるか祖先である縄文の人ってどんな人だったと想像していますか。

館長:
助け合い、他者のことを考える人たちだったと思いますね。逆にそうでないと生きていけない社会だったのではないかと思います。」

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現在の社会システムは、何もかも個別化し「一人で生きていける」ことを前提としすぎているのかもしれません。

芹沢:
「焼町土器の調査をしてきたなかで思うのは、こんなにこだわって手の込んだ装飾の土器をつくるのに、他の地域のムラの土器を受け入れて、同じムラの家の中に置いたりしていて、こだわりもあるけれど、おおらかで受容性がある、という感じがしますね」

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まさに、器としての御代田・・・!

「みよた町民座談会」で話されていた、こだわりがある(個性が強い)人が集まる地域としての御代田、空洞であったり通り道であることで、他の地域と繋がってきた御代田説とも通じるところがありそうです・・・!

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他者と手を取り合い、自然とも同じように交流していたかもしれない縄文人。

「平成」という時代は、有史以来の日本で戦争がなかった稀有な時代だと言われます。その先の令和であるいま、センパイ(祖先)としての縄文人に思いを馳せながら、そのDNAを開花させ、ここからまた1万年以上続く平和な時代を、みんなでつくっていきたいと強く思います。そのヒントは、

「自分たちらしさをないがしろにせずたっぷりと表現し、かつ、他者を受け入れ尊重すること」

縄文土器が時を越えて語りかけてくれる言葉に耳を傾けながら、ますますその叡智に触れていきたいものです。

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浅間縄文ミュージアム

・開館時間:午前9:30~午後5:00まで。最終入館は4:30分まで。
・休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)、祝日の翌日。年末年始。

御代田町では、ふるさと納税返礼品として、全国でも珍しい縄文土器のレプリカも用意しています。制作が難しく少数しかありませんが、縄文ミュージアム館長も認める逸品です。

▼御代田町 浅間縄文ミュージアムのふるさと納税返礼品はこちら

※ 土器のレプリカは残り1点となっています。ご希望のかたはどうぞお早めに・・・! 
(※12月7日の時点で売り切れとなりました! あくびちゃんを迎えいれてくださったかた、うらやましい・・・。ありがとうございました。。!)

[編集・文:兼松 真紀]